賑やかな猫に呆れる私——走り回る背中を、ただ呆然と見つめた夏の午後

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七月の昼下がり、セミの声がアスファルトに溶けていくような時間帯のことだった。

窓の外には入道雲がもくもくと積み上がり、室内にはエアコンの低い唸り声と、ひとつの小さな嵐が同居していた。その嵐の名は、むぎ。生後十一ヶ月になる茶トラの、賑やかな猫だ。

むぎが走り回る猫であることは、迎えた日から知っていた。でも「知っている」と「実際に目の前で起きている」の間には、思った以上の距離がある。リビングの端から端まで、フローリングの上をざざざっと滑りながら疾走し、ソファの背もたれを踏み台にして宙を舞い、着地した瞬間にはもう次の標的を目で追っている。あの小さな体のどこにそれだけのエネルギーが詰まっているのか、まったく謎だ。

私はコーヒーを一口飲もうとしていた。「ニルヴァーナブレンド」という名の、近所の輸入雑貨店で買った豆を挽いたやつで、深煎りの香ばしさがちょうど鼻に届いたその瞬間、むぎが私の膝の上を足場にして跳躍した。コーヒーカップは傾き、テーブルの上に三センチほどの染みができた。むぎはすでに廊下の向こうだ。

呆れる私、というのは正確ではないかもしれない。正確に言うと、呆然とした私だ。怒る間もなく、言葉が出てくる前に、ただ目で追ってしまう。走り回る猫の後ろ姿を、ぼんやりと。

子どもの頃、実家に猫がいた。名前はクロで、ほとんど動かない猫だった。縁側でうとうとして、呼んでも来ない。そういう猫しか知らなかったから、むぎのような存在は最初、別の生き物に見えた。猫というより、小さな竜巻に近い。

走り回るのが夜だけならまだいい。むぎの場合、午後二時でも、夕飯の支度中でも、私が集中して原稿を書いているときでも、関係なく始まる。何かのスイッチが入る瞬間があって、それが外からはまったく読めない。ある日など、むぎが急に立ち止まり、何もない壁の一点を三分間じっと見つめていたことがある。私も一緒に見てしまった。何もなかった。(心の中で、「いや、私が見てどうする」とひっそりツッコんだのは内緒だ。)

賑やかな猫と暮らすということは、静けさの概念が変わるということでもある。むぎが走り回る音は、四つ足がフローリングを叩く乾いた音と、何かにぶつかる鈍い音と、着地のたびに鳴る小さな「ふっ」という息の音で構成されている。最初はうるさいと思っていたのに、今ではその音がしないと、逆に部屋がしんと重くなる気がする。

先週、むぎがソファの上でうとうとしている瞬間があった。走り回る猫が、ようやく電池切れになった時間。その小さな体が、上下にゆっくりと揺れていた。息をするたびに、腹がふくらんで、しぼんで。触れると温かくて、毛並みの奥から体温が伝わってきた。柔らかいというより、ほんのり弾力がある感じ。こういう瞬間のために、あの嵐を受け入れているのかもしれないと思う。

呆然と猫を見つめる私は、今日もコーヒーを飲みそびれている。でも、それでいいような気もしている。むぎが走り回る猫である限り、この部屋には確かに何かが生きている。それは静けさよりも、ずっと本物の感触がする。

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