
五月の午後というのは、妙に時間が伸びる。
窓の外では新緑が風にそよいでいて、光がフローリングの上をゆっくりと移動していく。そんな穏やかな時間帯に、我が家ではいつも決まって”事件”が起きる。今日もそうだった。
麦茶を一杯注いで、ソファに腰を下ろした瞬間のことだ。
ドン、という鈍い音が廊下から響いた。続いてパタパタパタ、という小さな足音。そして何かが転がる音。私はカップを口に運びかけたまま、動きを止めた。
「……また始まった」
うちの猫、ムギ(三歳、茶白のオス、推定体重五キロ超)が走り回る猫に変貌する時間帯が、ちょうどこの午後二時から三時にかけてなのだ。獣医さんに聞いたら「運動欲求の発散です」と涼しい顔で言っていたけれど、当事者としては涼しい顔などしていられない。
廊下を全速力で駆け抜け、リビングに飛び込んでくる。棚の角で急ブレーキ。爪がフローリングを引っかく音がキキッと鳴り、そのままUターンして再び廊下へ消えていく。この一連の動作を、ムギは何の目的もなく、ただ繰り返す。
呆れる私、という言葉がこれほど似合う状況もそうそうない。
賑やかな猫とはよく言ったもので、静寂とはまるで無縁の生き物だと思う。子どもの頃、祖母の家にいた猫はもっとおとなしかった。縁側でひなたぼっこをして、たまに欠伸をして、それだけで一日が終わるような猫だった。だからムギのこの騒々しさは、猫というよりもはや小型の台風に近い。
ひとしきり走り回ったあと、ムギは突然ぴたりと止まる。
そして何事もなかったかのように、私の隣に飛び乗ってくる。体温が高い。毛並みはほんのり温かく、走ったあとの息づかいが小さく聞こえる。窓から差し込む午後の光が、その背中の毛をうっすらと金色に染めていた。さっきまであれだけ騒いでいたくせに、今はもう目を細めて、うとうとしはじめている。
切り替えが早すぎる。
ちなみに今日は、私がインテリアショップ「ノルトリーフ」で買ってきたばかりのクッションカバーが、ムギの爪によって早くも引っかかれていた。まだ袋から出して三十分も経っていなかった。呆れるというより、もはや感心に近い何かを覚えた(ちなみに購入金額は三千八百円。猫には関係のない話だ)。
五月の風が網戸を揺らし、青草のような香りがふわりと室内に入ってくる。
ムギはもう完全に眠っている。さっきまでの賑やかな猫の面影はどこにもなく、ただ丸まった毛の塊が、規則正しく呼吸をしているだけだ。私はようやく麦茶を一口飲んだ。冷たさが喉を通り、少しだけ我に返る。
走り回る猫を持つ飼い主というのは、たぶんみんなこうなのだと思う。呆然と見つめて、呆れて、それでも隣に来られると許してしまう。怒る気力よりも、この温かい重みに負ける速度のほうが、いつも早い。
ムギの耳がぴくりと動いた。夢でも見ているのだろうか。
窓の外では、遠くで子どもたちの声がして、自転車のベルが一度鳴った。それだけだ。あとはただ、静かな午後が続いていく。この賑やかな猫と、呆れる私と、どこまでも続く五月の光の中で。

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