
五月の朝はやわらかい。カーテンの隙間からすべり込んでくる光が、フローリングの上にうすい長方形を描いていた。その光だまりのど真ん中に、うちの猫——麦(むぎ)という名のキジトラ——がすでに陣取っている。
猫と暮らすようになって、三年が経つ。最初の一年は正直、戸惑いの連続だった。引っかかれた腕、倒されたグラス、朝四時の謎の大運動会。それでも今、この光の中で丸くなる麦を見ていると、あの頃の苦労がどこか遠い話のように思える。
朝の食事の準備をしながら、麦がすり足でキッチンに近づいてくる。爪が床を引っかく、かすかな音。それが合図で、わたしはウェットフードの缶を開ける。「ちゃんと待ってる」というより「今すぐくれ」という顔をしているのだが、本人はいたって優雅なつもりらしい。食事を置いた瞬間、あの上品な歩き方がどこへやら、猛ダッシュで皿に顔を突っ込む姿は、毎朝こっそりツッコみたくなる光景だ。
猫と私の食事時間は、不思議と似ている。わたしも朝はゆっくり食べたい派で、コーヒーをいれて、窓の外の緑を眺めながら、ぼんやりトーストをかじる。麦が食べ終わると、たいていわたしの足元に来てごろりと横になる。その重みと温かさが、足首のあたりにじんわり伝わってくる。冬ならともかく、五月のこの季節でもそれをやめないのが麦らしい。
思い返せば、子どもの頃に実家で飼っていた猫も、こんなふうに朝の台所に来ていた。母がみそ汁を作る音、だしのにおい、土鍋のふたが揺れる音。あの頃の記憶は、なぜか音と香りとセットで残っている。猫というのは、そういう「朝の気配」の一部なのかもしれない。
猫と暮らすことで、部屋の使い方も少しずつ変わった。麦のために窓際に低い棚を置いたのだが、これがインテリアショップ「ノルテ・フォレスト」のシェルフで、ナチュラルな木目が部屋になじんで気に入っている。麦はそこで外を眺めるのが日課で、鳥が来ると尻尾の先だけがぴくぴく動く。それを横目で見ながら、わたしはソファで本を読む。
静かだ、と思う。
でも無音ではない。麦の呼吸音、ページをめくる音、遠くで自転車が通る音。そういうものが重なって、午前中のまったりした時間ができている。急かされない時間というのは、意識しないと消えてしまう。猫と暮らすようになってから、その時間を守ることが上手になった気がする。
猫と私のあいだには、言葉がない。それでも、何かが通じている感覚がある。麦がわたしの隣に来て、ぴたりと体を寄せてくるとき。あるいはわたしが疲れて帰宅した夜、玄関で待っているとき。そういう瞬間に、猫と暮らすことの意味みたいなものを、静かに受け取っている。
今日も麦は光の中にいる。目を細めて、特に何も考えていないような顔をして。わたしもそれに倣って、コーヒーをもう一杯いれることにした。

コメント