
五月の連休に入ったばかりの午後、窓から差し込む光が洗面台の白いタイルに斜めに落ちていた。外ではどこかの子どもが自転車を漕ぐ音がして、風はまだ少しだけひんやりしていた。そんな穏やかな時間に、わたしはうちの猫・むぎ(推定4歳、茶トラ、自由人)をお風呂に連れ込もうとしていた。
猫の入浴というのは、飼い主にとって一種の覚悟がいる行事だ。
一度シャンプー剤をつけたら洗い流すまで終わらせることができない。十分覚悟を決めて取りかかる必要がある
、とどこかで読んだことがある。その言葉の重さを、わたしはこの日、身をもって知ることになった。
むぎをきれいにしようと思ったのには、ちゃんとした理由がある。先週、むぎが網戸をこじ開けてベランダに脱走し、植木鉢の土をたっぷり踏み荒らして帰ってきたのだ。足の裏は黒く、背中にもなぜか土がついていた。なぜ背中に、という疑問は今も解けていない。
脱走して帰ってきた時などは、落ち着いたらお風呂に入れた方がいい
というのは正しい判断だったと思う。
準備は念入りにした。
シャンプーは必ず「猫用」と表記のある専用のものを使う。人間用のシャンプーでは刺激が強く、皮膚トラブルの原因となりかねない
ため、近所のペットショップ「ノラネコ堂」で購入した無添加の低刺激シャンプーを用意した。タオルも三枚、ドライヤーも出しておく。洗面器には
30〜35度くらいのぬるま湯を2/3程度
はった。準備は完璧なはずだった。
むぎを抱えて洗面所に入った瞬間、空気が変わった。猫というのは、何かを察知する能力が異常に高い。洗面台のへりに前脚をかけ、振り返ったむぎの目には、明確な「嫌です」という意思があった。それでも、きれいにしようという飼い主の使命感は揺るがない。
いきなり全身をお湯につけたり、頭からお湯をかけたりしないこと。猫は顔に水がかかることを非常に嫌がるので、お尻や後ろ足などから少しずつ濡らして徐々にお湯に慣れさせる
のがコツだと知っていたので、まずはそっとお尻からお湯をかけた。むぎは低い声で「うー」と鳴いた。にぎやかなお風呂場の始まりだった。
泡立てたシャンプーを背中からお腹へ、
下方向から背中や手足、お腹、首周りの順で洗う。顔周りはシャンプーをつけずに、タオルで拭くだけ
にした。むぎはずっと小声で抗議し続けていたが、逃げようとするほどではなかった。ここで少しだけ誇らしい気持ちになった。が、すすぎに入った瞬間、むぎはわたしの腕をよじ登り、左肩の上に着地した。シャンプーの泡がついたまま。わたしのTシャツも、もちろんびしょ濡れになった。
シャンプー後、猫は必ずセルフグルーミングを行うので、すすぎはしつこいくらいしっかり行う
必要がある。なんとかむぎを洗面台に戻し、丁寧にすすいだ。お湯の中で白い泡が溶けていくのを見ながら、むぎの毛がゆらゆらと揺れていた。その感触は、思いのほか柔らかくて温かかった。
タオルで包んだむぎは、まるで小さなおにぎりのようだった。
タオルドライはゴシゴシと擦るのではなく、タオルを体に押し当てるようにして優しく拭いてあげる。ドライヤーの時間をなるべく短くするため、複数枚のタオルを使ってしっかりと水気をとることが重要
だ。三枚のタオルを次々に使い、むぎを拭いていると、だんだん体温が戻ってくるのがわかった。ドライヤーの風を低めの温度で当てると、むぎは目を細めて、少しだけ気持ちよさそうな顔をした。怒っていたのに、ちゃっかりしている。
乾き終わったむぎは、ふわりと毛が膨らんで、心なしかいつもより白く見えた。鼻先に顔を近づけると、シャンプーのほのかな草の香りがした。窓の外では、さっきの子どもがまだ自転車を漕いでいた。
猫をお風呂に入れる頻度は、短毛種なら半年〜1年に一度、長毛種なら1ヶ月に一度くらいが適切
とされている。毎日入れたくなる気持ちもわかるが、
猫の体は洗いすぎると被毛や皮膚の潤いが奪われ、皮膚のトラブルにつながる恐れがある
ため、ほどほどが大切だ。
猫の入浴は、にぎやかで、少し大変で、でもどこか愛おしい時間だと思う。むぎはその後、洗面所の前で長いことグルーミングをしていた。自分でもきれいにしようとしているのだろう。わたしが洗ったのに、もう一度自分で洗い直している。まあ、それでいい。きれいなむぎが、そこにいる。それだけで、この午後は十分だった。

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