
窓の外は、朝から雨だった。
十月の中旬にしては珍しく、しとしとと降り続ける細い雨。ベランダのプランターに残っていた金木犀の香りも、今日ばかりはすっかり雨の匂いに塗りつぶされていた。土が濡れる独特の、少しだけ甘くて少しだけ冷たい、あの匂い。
うちの猫——名前はムギ、三歳になる茶白のオス——は、朝ごはんを食べ終えるとすぐに窓辺へ向かった。外を見つめる猫の背中は、いつもより少しだけ丸く、どこか真剣だった。
雨の日に猫が窓の外をじっと見つめるのは、自分の縄張りに異変がないかを確認している状態だという。
ムギもきっと、雨に変わった外の世界を、その黄緑色の瞳でひとつひとつ確かめていたのだろう。
私はソファに腰を下ろして、温かいコーヒーを一口飲んだ。「ノルディクラフト」というスウェーデン発の豆を先週取り寄せたもので、スモーキーな香りの中にほんのりナッツの甘さが混じっている。カップを両手で包むと、その熱がじんわりと指先まで伝わってきた。外は雨。室内は静かで、ほんのり暗い。
そういえば子どもの頃、雨の日が好きだった。傘を持たずに登校して、帰り道にずぶ濡れになって、母親に叱られたあの感覚。雨粒が顔に当たる冷たさと、靴の中にじわじわ浸みてくる水の不快さを、なぜか今でも懐かしく思い出す。あれは小学三年生の秋だったか、四年生だったか。記憶はいつも少しだけあやふやだ。
ムギは動かない。
窓ガラスに流れる雨粒を、その耳だけがわずかに動いて追っていた。
雨粒がガラスに当たる音や、風で揺れる木の動きが気になることもあるという。
確かに今日の雨は、葉っぱを揺らすたびに小さな音を立てていた。ぱたぱた、ぱたぱた。それがリズムになって、部屋の中に静かに溶け込んでいく。
一緒に見つめる私も、いつの間にかムギの隣に座っていた。
ソファを離れてフローリングに腰を下ろし、ムギの背中にそっと手を置く。温かい。猫の体温というのは人間より少し高くて、雨の日の冷えた室内では特にそれがよくわかる。ふわふわした毛の奥に、小さな心臓の鼓動がある。ムギはそれでも外を見続けていた。私が隣に来たことなど、たいして気にしていない様子で。
——ここで正直に言うと、私はこの日、ムギに話しかけようとして「ねえ、何が見えるの」と口に出した瞬間、うっかりコーヒーカップをフローリングに倒してしまった。幸い中身はほとんど飲み終えていたが、ムギはそのガシャンという音に驚いて三秒だけ私を見た。三秒だけ。それからまた、何事もなかったように窓の外へ視線を戻した。猫というのは、飼い主の失態にひどく冷静だ。
雨の日に窓を見つめる猫の姿は、多くの飼い主が目にする光景のひとつだ。
けれどこうして隣に並んで同じ方向を眺めていると、「見つめる」という行為がこんなにも豊かなものだと気づかされる。ムギには聞こえているはずの、雨の音。私には届かないかもしれない、土の匂いの変化。外は雨で、世界はいつもより少しだけ遅く動いていた。
午後二時をまわった頃、雨は少し強くなった。
窓ガラスが白く曇り始めて、外の景色がぼんやりとにじんでいく。ムギはそのタイミングで、ようやく窓辺を離れた。ひとつ大きなあくびをして、ソファの端にまるまって目を閉じた。
雨の日には晴れに備えて休養する日となるので、猫が寝姿を見せることが多くなるという。
なるほど、と思う。ムギなりの「今日はここまで」という区切りだったのかもしれない。
私は新しいコーヒーを淹れた。今度はこぼさないように、両手でしっかりカップを持って。
窓の外はまだ雨で、外を見つめる猫はもういない。代わりに私だけが、流れる雨粒をぼんやりと眺めていた。特別なことは何もない午後だったけれど、なぜかずっと覚えていたいような気がした。こういう時間が、たぶん一番やわらかい。

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