猫と私の、とろけるような食事時間――秋の午後に見つけた、小さな幸福

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窓の外で、金木犀がかすかに香っている。

十月に入ったばかりの午後三時。斜めに差し込む光が、フローリングの上に細長い四角形を描いていた。その光だまりのど真ん中に、うちの猫——ムギ——がいる。キジトラ模様の背中をまるめて、目を細め、ほとんど溶けかけているような顔で眠っていた。

猫と暮らすようになって、もう四年が経つ。

最初の一年は、正直なところ戸惑いの連続だった。深夜に突然走り回る音、朝五時の「ごはんくれ」の鳴き声、大切にしていた陶器のマグカップを棚から落とされた朝のこと。あの日は思わず「なんでやねん」と声に出してしまったのだけど、ムギはまったく悪びれず、自分の前足をぺろりと舐めていた。——今思えば、あの堂々とした態度が妙に清々しかった。

でも今は、その静けさと温度が、私の日常のど真ん中にある。

秋になると、私はよくひとりで遅い昼食をとる。といっても大げさなものではない。土鍋で炊いたご飯に、昆布と鰹でとった出汁の味噌汁。それから、近所の豆腐屋「みやこ屋」で買ってきた絹豆腐を、しょうがと醤油だけで食べる。猫と私の食事は、もちろん別々だ。ムギには獣医師に勧められた療法食と、ほんの少しのウェットフード。でも食べる時間帯はなんとなく合わせるようにしていて、私がご飯を食べはじめると、ムギもそそそと起き上がり、自分のごはん皿の前に座る。

その仕草が、なんとも言えずかわいい。

食べ終わったあとは、ふたりしてぼんやりする時間がある。私はインテリアブランド「ハコノワ」の麻のクッションを背もたれにして、ソファに沈む。ムギはしばらくグルーミングをしてから、私の膝の上に乗ってくる。正確には「乗ってくる」というより、じわじわと侵食してくる、という感じだ。最初は膝の端っこに前足を置いて様子を伺い、少しずつ体重を移動させて、気づいたときには完全に占領されている。

その重さが、ちょうどいい。

子どもの頃、祖母の家に行くたびに縁側で昼寝をしていた。畳の匂い、遠くで鳴くセミの声、うとうとするたびに感じる夏の熱気。あの感覚に、猫のぬくもりはどこか似ている。体の芯から力が抜けていく、あの独特の弛緩。

ムギが喉を鳴らしはじめる。ごろごろ、という音は、静かな部屋にやわらかく広がって、私の呼吸をゆっくりにさせる。窓から入る風は、もう夏のそれではなく、どこかひんやりとした秋の空気を含んでいた。金木犀の香りが、また一瞬だけ漂った。

猫と私の午後は、こうして何もしないまま、ゆっくりと過ぎていく。

用事はある。洗濯物を畳まなければならないし、夜の食事の買い物にも行かなければならない。でも、ムギが眠っているあいだは、なんとなく動けない。いや、正確には——動きたくない。この温度と重さと、かすかな呼吸の音が、今この瞬間だけのものだと知っているから。

猫と暮らすということは、時間の使い方が変わることだと思う。

効率とか、生産性とか、そういう言葉から少しだけ遠ざかって、ただ「今ここにいる」ということの豊かさに気づかされる。猫と私が共有しているのは、部屋でも食事でもなく、この「まったりとした時間」そのものなのかもしれない。

外では風が木の葉を揺らしている。ムギは夢でも見ているのか、前足をぴくりと動かした。私はそっとその頭に手を置いて、目を閉じた。

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