
朝の光が斜めにキッチンに差し込んでくる時間帯が、私は好きだ。まだ六時半にもならない頃、窓の外では鳥の声がして、空気がひんやりとしている。冬の終わりから春への移り変わりのこの季節は、朝の冷たさと日中の暖かさが混在していて、何を着るか迷う日々が続く。そんな曖昧な季節の朝、私の足元には必ず一匹の猫がいる。
名前はムギ。茶トラの雑種で、目つきは悪いが性格は穏やかだ。彼女がうちに来たのは三年前の秋で、それ以来、私の生活リズムは完全にムギ基準になった。彼女は朝ごはんの時間に厳しい。六時を過ぎると私の枕元に来て、鼻先を顔に押し付けてくる。無視すると前足で頬をぽふぽふと叩かれる。まるで「起きなさい」と言わんばかりの行動だが、その力加減は絶妙で、決して痛くない。むしろ、あの柔らかい肉球の感触が心地よくて、起きたくなるのだから不思議だ。
猫と暮らすようになってから、朝食の時間が変わった。以前はトーストとコーヒーを流し込むだけの慌ただしい朝だったが、今は違う。ムギの食事を用意する間に、自分の分もゆっくり準備するようになった。彼女の器にカリカリのフードを入れる音が、朝のルーティンの始まりを告げる合図になっている。その音を聞くと、ムギは尻尾をぴんと立てて、足元をすり抜けていく。彼女の体温が足首にふれる瞬間、ああ、今日も一日が始まるのだと実感する。
私の朝ごはんは、最近はもっぱらオートミールだ。牛乳で煮て、バナナとはちみつを加える。シンプルだが飽きない。そして何より、ムギが食事をしている間に、ちょうど良いタイミングで出来上がる。彼女が食べ終わるころには、私もテーブルに座って、温かいオートミールをスプーンですくっている。窓の外を眺めながら、ゆっくりと口に運ぶ。はちみつの甘さと、バナナの柔らかさ、そして牛乳のまろやかさが混ざり合う。この時間が、私にとっては何にも代えがたいものになった。
ムギは食後、必ず顔を洗う。前足を舐めて、耳の後ろから顔全体を丁寧に拭う。その仕草を見ているだけで、なぜか心が落ち着く。子どもの頃、祖母の家で飼っていた猫も同じように顔を洗っていた。あの猫の名前は忘れてしまったが、夏の縁側で昼寝をしている姿だけは、今でも鮮明に覚えている。畳の上に寝転がって、猫の寝息を聞きながら、私も一緒にうとうとしていた。あの頃の記憶が、ムギを見ているとふと蘇ってくる。
ある日の朝、いつものようにムギの食事を用意していると、彼女が珍しくキッチンカウンターに飛び乗ってきた。普段は絶対にしない行動だったので驚いたが、どうやら私が使っているバターの匂いに興味を持ったらしい。鼻をひくひくさせながら、バターの塊に顔を近づけていく。「ダメだよ」と声をかけたが、彼女は聞く耳を持たない。そして次の瞬間、鼻先がバターに触れた。ムギは驚いたように後ずさりし、鼻についたバターを必死に舐めようとする。その姿があまりにも滑稽で、私は思わず笑ってしまった。彼女は不満そうに私を見上げたが、すぐにまた顔を洗い始めた。
猫と私の朝の時間は、そんな小さな出来事の積み重ねでできている。特別なことは何もない。ただ、彼女がそこにいて、私もそこにいる。それだけのことだが、その「それだけ」が、どれほど豊かなものか、今ならわかる。
最近、友人が「ノルウェーの森」という名前のコーヒー豆を教えてくれた。深煎りで、少し酸味がある。朝のオートミールに合うかもしれないと思い、試してみた。淹れたてのコーヒーの香りが部屋に広がると、ムギが興味深そうにこちらを見る。彼女はコーヒーの匂いが好きなのかもしれない。もちろん飲ませはしないが、香りだけは一緒に楽しんでいる。
猫と暮らすということは、誰かと時間を共有するということだ。それは人間同士の関係とは少し違う。言葉はないが、確かに通じ合っている何かがある。ムギが私の足元で丸くなって眠る時、その温もりが伝わってくる。彼女の呼吸のリズムが、私の呼吸と重なる。そんな瞬間に、私は孤独ではないのだと感じる。
朝の食卓は、私にとって一日の中で最も大切な場所になった。ムギと私、それぞれの器、それぞれの時間。でも、同じ空間を共有している。窓から差し込む光、コーヒーの香り、ムギの寝息。それらすべてが、私の朝を作っている。
これからも、この時間は続いていくだろう。ムギが年を重ねても、私が年を重ねても。朝の光は変わらず差し込み、私たちはそこにいる。それが、猫と暮らす私の、小さくて大きな幸せなのだ。


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