猫と読書、甘い邪魔の幸福論

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休日の午後、お気に入りのソファに身を沈め、ようやく手に取った小説のページをめくる。この瞬間のために一週間働いてきたのだと言っても過言ではない。コーヒーの香りが部屋に漂い、窓から差し込む柔らかな光が文字を照らす。完璧な読書タイムの始まりだ。

しかし、その静寂は長くは続かない。足音もなく近づいてくる小さな気配。視界の端に映る、しなやかな影。次の瞬間、本の上に柔らかな肉球が乗る。我が家の猫、ミケが満を持して登場したのだ。

「ちょっと待って、今いいところなんだけど」と言いながらも、その琥珀色の瞳を見上げると、心が緩んでしまう。ミケは私の言葉など意に介さず、開いた本のページの真ん中にどっかりと座り込む。まるで「この紙の束より、私を見なさい」と主張しているかのようだ。

邪魔をする猫の行動パターンは実に多彩だ。本の上に座るのは序の口で、ページをめくろうとする手に頭をすりつけてくる、本と顔の間に割り込んでくる、しおり代わりの紐で遊び始める。時には本を読む私の膝の上で、わざわざ伸びをして本を押しのけることもある。その計算されたような邪魔のタイミングは、まるで「今、あなたが集中しているのは分かっている。だからこそ、今なのだ」と言っているようだ。

読書する私にとって、猫の邪魔は確かに物語の世界への没入を妨げる。主人公が重要な決断を下そうとしている場面で、ミケの鼻が本の文字を隠す。犯人が明かされる直前のページに、尻尾が優雅に横たわる。推理小説の緊張感あふれるクライマックスで、喉を鳴らす音が静寂を破る。

けれども、不思議なことに腹は立たない。いや、正確に言えば、一瞬は「もう!」と思うのだが、その感情はすぐに別の何かに変わる。それは諦めでもなく、妥協でもない。もっと温かく、甘やかな感情だ。

愛おしい猫の存在は、読書という孤独な行為に別の次元を加える。物語の世界に浸りながらも、現実世界に確かに存在する温もりを感じられる。ミケの柔らかな毛並みを撫でながら、本の登場人物の心情を思う。猫の規則正しい呼吸を感じながら、作者の紡ぐ言葉を追う。この二重の世界の中で、時間はゆっくりと、しかし確実に流れていく。

猫が邪魔をするのは、愛情表現の一つなのだと気づいたのは、ある獣医師の言葉からだった。「猫は飼い主が何かに集中していると、自分への注意が向いていないことを敏感に察知します。そして、その注意を自分に向けさせようとするのです」。つまり、ミケは私に構ってほしいのだ。読書という行為が、私を彼女から遠ざけていると感じているのかもしれない。

この理解は、邪魔をする猫への見方を変えた。単なる妨害行為ではなく、「私を見て」「一緒にいて」という無言のメッセージなのだと。そう考えると、本のページの上で丸くなるミケの姿が、より一層愛おしく見えてくる。

読書と猫との共存は、一種の妥協点を見出すことでもある。ミケを膝の上に乗せ、片手で撫でながら、もう片方の手で本を持つ。少し読みづらいが、これはこれで悪くない。時には読書を中断して、十分に猫と遊ぶ時間を作る。すると不思議なことに、ミケは満足したように離れていき、私は再び読書に集中できる。

猫との暮らしは、計画通りにいかないことの連続だ。読書の時間も例外ではない。しかし、その予測不可能性こそが、日常に彩りを添えてくれる。物語の世界だけでなく、目の前にいる小さな命との対話も、人生を豊かにする大切な要素なのだと、ミケは教えてくれる。

今日もまた、本を開けば、どこからともなくミケがやってくるだろう。そして私の読書を邪魔するだろう。でも、それでいい。本の世界に没頭する幸せと、猫に邪魔される幸せ。この二つは矛盾しているようで、実は深いところで繋がっている。どちらも、穏やかな日常の中にある、かけがえのない時間なのだから。

ページをめくる音、猫の喉を鳴らす音、コーヒーカップを置く音。これらが混ざり合って、私だけの読書時間の交響曲を奏でる。邪魔をする猫がいる読書は、確かに集中力を欠くかもしれない。でも、その代わりに得られるものは計り知れない。それは愛おしさであり、温もりであり、今この瞬間を生きている実感なのだ。

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