猫は知っている、私が本を開く瞬間を

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窓の外から差し込む午後三時の光が、リビングの床に細長い影を落としている。春先の柔らかな日差しは、冬の名残を残しながらも確実に温度を上げていて、私はソファに腰を下ろすと、ようやく手に入れた新刊を開いた。表紙には淡いグレーの装丁が施され、タイトルの文字が静かに主張している。この静寂こそが、私にとって至福の時間の始まりだった。

だが、その静寂は長くは続かない。本を開いて三ページほど読み進めたところで、足元から小さな気配を感じる。見下ろすと、案の定、灰色の毛並みをした我が家の猫が、じっとこちらを見上げていた。その瞳は、まるで何かを訴えかけるように輝いている。私は軽く目を合わせてから、再び本に視線を戻した。

しかし、猫は諦めない。今度は前足をソファの端にかけ、ゆっくりと体を持ち上げる。そして何の躊躇もなく、私の膝の上へと飛び乗ってきた。その瞬間、開いていたページがふわりと閉じる。しおりを挟んでいなかったことを後悔しながら、私はため息をついた。

「ちょっと、今いいところだったんだけど」

そう声をかけても、猫は涼しい顔をしている。それどころか、膝の上で丸くなり始め、尻尾を体に巻きつけて落ち着いた様子を見せる。その重みと温かさは心地よく、私の集中力をじわじわと奪っていく。本を片手で支え直し、なんとか読み続けようとするが、猫は私の腕に顔を擦りつけてくる。喉を鳴らす音が、静かな部屋に響いた。

私が子どもの頃、祖母の家には茶トラの猫がいた。その猫もまた、誰かが座って何かに集中し始めると、必ずやってきて膝に乗る習性があった。祖母は「猫っていうのはね、人が落ち着いてる時が好きなのよ」と笑いながら言っていたが、今思えば、それは猫なりの愛情表現だったのかもしれない。

再び本を開こうとすると、今度は猫が前足を伸ばし、ページの上に乗せてきた。まるで「読むな」と言わんばかりの仕草だ。私は苦笑しながら、その小さな肉球を指先で軽く押してみる。すると猫は少しだけ体勢を変え、今度は本の上に顎を乗せた。完全に読書を妨害する気でいる。

部屋の隅に置いてあるアロマディフューザーから、ラベンダーの香りがふわりと漂ってくる。友人が勧めてくれた「セレーネ・アロマティクス」というブランドのもので、リラックス効果があると聞いて使い始めたのだが、確かにこの香りは心を穏やかにしてくれる。猫もこの香りが好きなのか、時折鼻をひくひくさせている。

私は本を閉じ、猫の頭を優しく撫でた。するとゴロゴロという喉の音が大きくなり、目を細めて気持ちよさそうにしている。その表情を見ていると、読書を中断されたことへの苛立ちなど、どこかへ消えてしまう。猫の毛並みは柔らかく、指を滑らせるたびに心地よい感触が伝わってくる。

ふと、猫がうとうとし始めた。小さな体が規則正しく上下し、呼吸のリズムが穏やかになっていく。その様子を見ていると、私も少し眠くなってきた。本はソファの脇に置き、背もたれに体を預ける。窓の外では、風に揺れる木々の葉が、さらさらと音を立てている。

猫が完全に眠りに落ちたのを確認してから、私はそっと本を手に取ろうとした。だが、その瞬間、猫がぴくりと反応し、片目だけを開けてこちらを見た。まるで「まだ動くな」と言っているようだ。私は思わず笑ってしまった。こんなに小さな体で、私の行動を完全に支配している。

結局、その日は本を数ページしか読めなかった。だが、猫の温もりと、その愛おしい仕草を感じながら過ごした時間は、どんな物語よりも豊かだったように思う。本はまた明日読めばいい。けれど、この瞬間の猫の表情や、膝の上で感じる重みは、今この時にしか存在しないものだ。

夕方になり、部屋がオレンジ色に染まり始めた頃、ようやく猫が目を覚ました。大きく伸びをして、私の膝から降りると、何事もなかったかのようにキャットタワーへと向かっていく。その後ろ姿を見送りながら、私は再び本を手に取った。今度こそ、と思いながらページを開く。だが、数分後、また足元に小さな気配を感じるのだった。

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