
まぶたの裏側がまだ赤い。二度寝と三度寝の境界線で溶けかけていた意識に、何かが乗っかってきた。
重さでいえば4キロくらい。みぞおちのあたりに、ずしん、と。目を開けると視界いっぱいに灰色の毛並みが広がっていて、その奥に琥珀色の瞳がこっちをじっと見つめている。うちの猫だ。名前はまだ言わないでおく。朝の7時半、カーテンの隙間から斜めに差し込む光が猫の耳を透かして、妙に神々しい。でも、神々しさと空腹は両立するらしい。低く短い鳴き声が一回。これは「ごはん」の合図。
ベッドの中って本当に良い場所で、人類が発明した最高の居場所ランキングがあったら確実にトップ3に入ると思ってる。布団の中の温度、微妙に沈み込む感覚、外界との適度な遮断感。全部が完璧に調和してる。それなのに猫は容赦なくその聖域を侵してくる。しかも前足で顔を押してくる。肉球のひんやりした感触が頬に当たって、ああもう無理だ、起きるしかない、って諦めるまでが毎朝のルーティン。
去年の冬、友達が「猫飼うと生活リズムが整うよ」って言ってたのを思い出す。
整うどころか支配されてるんだけど。目覚まし時計より正確に、毎朝同じ時間に起こしに来る。週末も関係ない。猫に曜日感覚はない。あるのは「腹が減った」という絶対的な事実だけ。ベッドから這い出して、裸足で廊下を歩く。フローリングが冷たい。猫は先回りして足元をすり抜けていく。尻尾がふわっと私の足首に触れる。キッチンに着くと、すでに空になった食器の前で座って待っている。その姿勢の良さ、期待に満ちた表情。まるで高級レストランで給仕を待つ客みたいだ。缶詰を開ける音で、耳がぴくっと動く。
猫を飼う前は、朝起きるのが本当に苦手だった。目覚ましを5個セットして、全部止めてまた寝る、みたいな生活。遅刻ギリギリで家を飛び出して、駅まで走る。それが日常だった。今は猫が起こしに来るから、少なくとも7時半には目が覚める。健康的といえば健康的なんだけど、選択肢がないっていうのがミソ。起きるか、顔を踏まれ続けるか。究極の二択。
ごはんを食器に盛ると、猫は一瞬だけ私を見上げて、それから夢中で食べ始める。
その「一瞬の視線」が妙に印象的で。感謝してるのか、確認してるのか、それとも「遅いんだよ」って文句を言ってるのか。猫の表情から読み取れる情報は限られてるけど、あの瞳の色と形には何か訴えかけるものがある。可愛いっていうより、もっと複雑な感情。依存と信頼と、ちょっとした優越感が混ざったような。
ベッドに戻る気力はもうない。キッチンの椅子に座って、窓の外を眺める。向かいのマンションのベランダに洗濯物が揺れてる。風が少し強いのかもしれない。猫は食べ終わると、顔を洗い始める。前足を舐めて、耳の後ろをこする。その動作が機械的で、でも丁寧で、見てるとなんだか落ち着く。
そういえば、猫を迎えた日のことを思い出した。ペットショップじゃなくて、知り合いの家で生まれた子猫を譲ってもらったんだけど、初めて家に連れて帰った夜、ずっと鳴いてた。小さくて、か細い声で。不安だったんだろうな。私も不安だった。ちゃんと育てられるのか、責任持てるのか。でも今、こうして毎朝起こしに来てくれる猫を見てると、あの時の不安が嘘みたいに思える。
猫が毛づくろいを終えて、窓辺に移動した。日向ぼっこの時間らしい。
私はまだパジャマのまま、コーヒーを淹れる気にもなれず、ただ椅子に座ってる。起こされたことに文句を言いたいわけじゃない。でも、もう少し寝ていたかった気持ちも正直ある。猫との暮らしって、そういう微妙なバランスの上に成り立ってる気がする。愛情と面倒くささ、癒しと責任、自由と束縛。どれも同時に存在してる。
窓辺で丸くなった猫が、薄目を開けてこっちを見た。もう満足したのか、それとも次の要求があるのか。わからないけど、とりあえず今日も一日が始まった。猫に起こされて、文句を言いながらも起きて、ごはんをあげて。明日もたぶん同じことの繰り返し。
でもまあ、悪くはない…と思う。たぶん。

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