猫と食卓を囲む、何もしない贅沢

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猫を飼い始めてから、食事の時間がやたらと長くなった。

別に料理が上手くなったわけでもないし、凝ったものを作るようになったわけでもない。相変わらず冷蔵庫にあるものを適当に炒めて、ご飯にのせて食べるだけ。ただ、テーブルに座ってから立ち上がるまでの時間が、明らかに伸びている。理由は簡単で、うちの猫が食事中の私をじっと見つめてくるからだ。椅子の背もたれに寄りかかって、皿に残った最後の一口を箸でつついていると、足元からするりと現れて、テーブルの脚に体をこすりつける。そのあと床にごろんと転がって、お腹を見せながらこっちを見上げてくる。これをやられると、もう立てない。

食べ終わったあとの時間って、本来なら無駄なんだと思う。さっさと皿を洗って、次のことをすればいい。でも猫がいると、その「次」に進む理由が見つからなくなる。

前に住んでいたアパートは駅前の雑居ビルの上で、窓を開けると居酒屋の換気扇の音と焼き鳥の匂いが入ってきた。あの頃は食事なんて五分で終わらせて、すぐパソコンの前に戻っていた気がする。食べることが作業の一部だった、というか。

今の部屋は少し郊外にあって、窓の外には小さな公園が見える。夕方になると斜めに差し込む光が、テーブルの木目をくっきり浮かび上がらせる。猫はその光の帯の中に入り込んで、目を細めながら毛づくろいを始める。舌で前足をなめて、顔をこする動作を何度も繰り返す。私はそれを眺めながら、冷めた麦茶を飲む。

猫と暮らすようになって気づいたのは、彼らには「効率」という概念がないということだ。朝起きて、伸びをして、水を飲んで、また寝る。窓辺で日向ぼっこをして、急に走り出して、何もなかったように毛づくろいをする。すべての行動が、それ自体で完結している。次の予定のために今を犠牲にする、みたいな発想がない。

私の食事もそうなった。

以前は「食べ終わったら洗濯物を畳まなきゃ」とか「メールの返信しなきゃ」とか考えながら食べていた。口に運びながら、頭の中では次のタスクを並べ替えていた。今は違う。猫が膝の上に飛び乗ってきたら、その重みと温かさに意識が持っていかれる。喉を鳴らす振動が太ももに伝わってくる。それだけで、他のことがどうでもよくなる。

友人に「猫って何するの?」と聞かれたことがある。確かに散歩に連れて行くわけでもないし、芸を覚えるわけでもない。ただそこにいるだけ。でもその「ただいるだけ」が、こんなに時間の質を変えるとは思わなかった。

この間、休日の昼下がりに簡単なパスタを作って食べていたら、猫がテーブルの上に飛び乗ってきた。普段は登らせないようにしているんだけど、その日は面倒くさくてそのままにした。猫は私の皿の横に座って、じっとフォークの動きを目で追っていた。別に食べ物が欲しいわけじゃなさそうで、ただ観察している感じ。私も食べるのをやめて、猫を見た。猫も私を見た。

そのまま十分くらい、お互い見つめ合っていた気がする。

時計を見たら午後二時を回っていて、窓の外では子どもたちが公園で遊んでいる声が聞こえた。パスタはすっかり冷めていたけど、別に温め直す気にもならなくて、そのまま食べた。猫は飽きたのか、テーブルから降りてソファの上で丸くなった。

「まったりとした時間」なんて言葉を使うと、なんだか意識高い系の休日の過ごし方みたいに聞こえるけど、実際はもっと地味で、もっと何もない。SNSに載せるような絵にもならないし、誰かに話すほどのエピソードでもない。ただ、確かにそこに時間があって、私と猫がいて、冷めたパスタがあった。

猫と暮らす前は、食事の時間を「充実させよう」とか考えたこともなかった。充実させるべきは仕事の時間とか、趣味の時間とか、もっと生産的な何かだと思っていた。でも今は、この何も生み出さない時間が、一日の中で一番好きかもしれない。

夜、遅い夕食を食べ終えて、皿を手に持ったまま立ち上がろうとすると、猫が足元で小さく鳴く。またか、と思いながら座り直す。キッチンの蛍光灯が少しちらついている。そろそろ替えないとな、と思いながら、猫の頭を撫でる。

皿はそのうち洗えばいい。今はこれでいい気がする。

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