猫と過ごす、ゆるやかな食卓の時間

Uncategorized

ALT

朝の光が窓から差し込むと、私の一日は必ず小さな足音から始まる。カーテンの隙間を縫って入ってくる柔らかな日差しに、猫のミルクが目を細めながらのびをしている姿が、私にとっての何よりの目覚まし時計だ。猫と暮らすようになってから、時間の流れ方が変わった気がする。せわしない日常の中で、ふと立ち止まることの大切さを、この小さな同居人が教えてくれたのだ。

キッチンに立つと、ミルクは私の足元にすり寄ってくる。朝ごはんの時間を知っているのだ。私が自分の朝食の準備をする前に、まずは彼女のお皿にカリカリとウェットフードを盛る。その間、ミルクは期待に満ちた目で私を見上げている。食事を用意する私と、それを待つ猫。この何気ない朝の儀式が、私たち二人の関係性を物語っているようで、いつも心が温かくなる。

猫と私の生活は、食事を中心に回っているといっても過言ではない。もちろん、それは単にお腹を満たすという意味だけではない。食事の時間は、私たちがともに過ごす特別な瞬間なのだ。ミルクが小さな口でカリカリを噛む音を聞きながら、私はコーヒーを淹れる。豆を挽く音、お湯を注ぐ音、そして猫の食事の音。これらが混ざり合って、私だけの朝の交響曲になる。

休日の昼下がり、私がキッチンでランチを作っていると、ミルクはカウンターの端に座って私の手元をじっと見つめている。彼女なりに、私が何をしているのか観察しているのだろう。野菜を切る音、フライパンで何かを炒める音、そして立ち上る香り。ミルクは興味津々といった様子で鼻をひくひくさせる。もちろん、人間の食べ物は猫には与えられないけれど、この空間を共有していることが嬉しいのだ。

食事の準備が終わると、私はダイニングテーブルに座る。すると決まってミルクは、テーブルの向かい側の椅子に飛び乗って、まるで食卓を囲む家族のように私の前に座る。彼女は自分の食事を終えているのに、私が食べ終わるまでそこで待っていてくれる。時々、窓の外を眺めたり、毛づくろいをしたりしながら、ゆったりとした時間を過ごす。その姿を見ていると、急いで食事を済ませることがばかばかしく思えてくる。

猫と暮らす前の私は、食事をただの燃料補給のように考えていた。仕事の合間に急いでかき込んだり、スマートフォンを見ながら無意識に口に運んだり。でも今は違う。ミルクという小さな存在が、食事の時間を「過ごすべき時間」に変えてくれた。彼女が私の向かいに座っているだけで、その時間がかけがえのないものになる。

夕食の時間はさらに特別だ。仕事から帰ってきて、玄関のドアを開けると、ミルクが必ず出迎えてくれる。「おかえり」と言っているかのように、小さく鳴きながら足元をくるくると回る。その日あった出来事を話しかけながら、私は夕食の準備を始める。ミルクは相槌を打つように時々「にゃあ」と返事をする。本当に理解しているのかはわからないけれど、聞いてくれているような気がして、それだけで心が軽くなる。

週末には、少し手の込んだ料理に挑戦することもある。レシピを見ながら、ゆっくりと時間をかけて作る。その間、ミルクはキッチンマットの上で丸くなって眠っていることが多い。私が料理をする音や気配を感じながら、安心して眠る彼女の姿は、この空間が彼女にとっても居心地の良い場所なのだと教えてくれる。

食後のひとときも、私たちの大切な時間だ。食器を洗い、キッチンを片付けると、ミルクと一緒にソファに座る。お腹いっぱいになった満足感と、一日の終わりの安堵感。ミルクは私の膝の上で喉を鳴らし、私は本を読んだり、音楽を聴いたりする。窓の外が暗くなっていくのを眺めながら、こんな穏やかな時間が永遠に続けばいいのにと思う。

猫と私の関係は、言葉を交わすわけでもなく、複雑な約束事があるわけでもない。ただ、同じ空間で、同じ時間を共有する。食事という日常的な行為を通じて、私たちは静かに絆を深めている。ミルクが私の足元で眠る姿、私の帰りを待っている姿、一緒に食事の時間を過ごす姿。それらすべてが、私の人生を豊かにしてくれている。

猫と暮らすということは、小さな命に責任を持つということでもある。毎日の食事、健康管理、そして何よりも愛情を注ぐこと。でも、それ以上に私が受け取っているものの方が大きい気がする。まったりとした時間の価値、静けさの中にある豊かさ、そして無条件の信頼関係。これらはすべて、ミルクが私に教えてくれたことだ。今日も、窓辺で日向ぼっこをするミルクの横で、私はゆっくりとお茶を飲む。急ぐ必要なんてない。この瞬間を、ただ味わえばいい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました