
朝の六時、私は呆然と猫を見つめていた。昨夜まで整然と並んでいた本棚の本が、まるで台風が通過したかのように床に散乱している。犯人は明白だ。窓辺で悠然と毛づくろいをしている茶トラ猫のマルが、何食わぬ顔でこちらを一瞥する。その瞳には「何か問題でも?」とでも言いたげな余裕すら感じられる。
マルが我が家にやってきたのは三ヶ月前のことだ。保護猫の譲渡会で出会ったこの猫は、ケージの中でも落ち着きなく動き回り、賑やかな性格が一目で分かった。スタッフの方が「活発な子です」と控えめに説明してくれたが、それは大いなる過小評価だったと今なら断言できる。
引き取った初日から、マルの本領は遺憾なく発揮された。新しい環境に緊張するどころか、まるで以前から住んでいたかのように家中を探検し始めた。キッチンの棚を開け、クローゼットに潜り込み、カーテンレールを綱渡りする。その姿はまるでサーカスの曲芸師のようで、見ているこちらが疲れてしまうほどだった。
特に夜中の運動会には参った。真夜中の二時、三時になると突然スイッチが入ったように走り回る猫の足音が響く。廊下からリビング、寝室へと疾走し、家具の上を飛び移り、カーテンをよじ登る。その度に目を覚まし、呆れる私がいる。しかし不思議なことに、怒る気にはなれなかった。むしろ、こんなに生命力に満ち溢れた存在が同じ空間にいることが、どこか心地よくさえ感じられた。
ある日の午後、在宅勤務中の出来事だった。重要なオンライン会議の最中、画面の向こうの上司が真剣な表情で業績について語っている。その時、視界の端でマルが動いた。次の瞬間、マルは書斎を縦横無尽に駆け回り始めた。本棚からデスクへ飛び移り、キーボードの上を横切り、私の肩に飛び乗る。画面越しに見える上司の表情が硬直するのが分かった。
「すみません、猫が…」と謝罪しようとした瞬間、マルはカメラの前に顔を出し、大きくあくびをした。会議室が一瞬静まり返り、次の瞬間、画面の向こうから笑い声が聞こえた。普段は厳格な上司までもが「可愛いですね」と笑顔を見せてくれた。その瞬間、私は悟った。マルの賑やかさは、時として人の心を和ませる魔法のような力を持っているのだと。
それでも日々の生活では、呆れることの連続だ。洗濯物を干そうとすれば、洗濯カゴに飛び込んで遊び、料理をしようとすれば、野菜を転がして追いかけ回す。読書をしようとすれば、本の上に寝そべり、掃除をしようとすれば、掃除機に戦いを挑む。マルにとって、この世界のすべてが遊び道具なのだ。
友人が遊びに来た時も、マルの本領は発揮された。玄関のドアが開いた瞬間、マルは興奮して走り回る猫と化した。初対面の友人の周りをぐるぐると回り、靴の匂いを嗅ぎ、バッグの中を覗こうとする。友人は「こんなに人懐っこい猫、初めて見た」と驚いていたが、私は内心「人懐っこいというより、好奇心旺盛すぎるんです」と訂正したかった。
しかし、マルとの生活が長くなるにつれ、私の中で何かが変わっていった。以前は完璧に整理整頓された部屋を好み、計画通りに物事が進むことに安心感を覚えていた。だが今は、朝起きて散らかった部屋を見ても、最初に感じるのは呆れではなく、微笑みだ。この散らかりは、マルが元気に過ごした証拠なのだから。
獣医師の定期検診で、先生が言った言葉が印象に残っている。「こんなに活発な猫は、ストレスがなく、幸せな証拠ですよ」。その言葉を聞いて、私は少し誇らしい気持ちになった。マルの賑やかさは、この家が彼にとって安心できる場所である証明なのだ。
夕暮れ時、仕事を終えて疲れて帰宅すると、マルは玄関で待っていてくれる。そして私の後をついて回り、何があったのか報告するかのように鳴き続ける。その声は騒がしいけれど、不思議と心が和む。一人暮らしの静かすぎる部屋に、生命の息吹を吹き込んでくれる存在。
今、私は再び呆然と猫を見つめている。今度は花瓶を倒し、水浸しになったテーブルの前で。マルは相変わらず何食わぬ顔で、濡れた足跡を残しながら歩いていく。深いため息をつきながら、私は雑巾を手に取る。そして気づく。この呆れる瞬間こそが、私の日常に彩りを与えてくれているのだと。
猫との暮らしは、予測不可能で、時に呆れることばかりだ。でも、その賑やかさの中に、確かな幸福がある。走り回る猫の姿に、生きる喜びの純粋な形を見る。呆れながらも、私は今日も猫との暮らしを愛している。


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