
朝の光がレースのカーテン越しに差し込む時間帯、私はリビングのソファに腰を下ろしていた。コーヒーの香りが部屋に漂い、ようやく一日が始まろうとしている。そんな穏やかな時間を、私は猫と過ごすことが多い。
我が家の猫、名前はタビといって、保護施設から引き取った雑種の雌猫である。灰色と黒の縞模様が特徴的で、見た目はおとなしそうに見える。だが実際のところ、この猫はとんでもなく賑やかだ。朝から晩まで走り回り、家具の隙間に潜り込んでは何かを探し、気がつけばカーテンによじ登っている。そんな毎日を送っていると、私はいつしか呆れることに慣れてしまった。
今朝もまた、タビは部屋の端から端まで全速力で駆け抜けていた。何に追われているのか、何を追いかけているのか、それは誰にもわからない。ただ、猫の本能がそうさせているのだろう。フローリングを蹴る肉球の音が規則的に響き、ときおり滑って体勢を崩す様子が見える。その姿を目で追いながら、私は呆然としていた。
子どもの頃、祖母の家にも猫がいた。その猫は老猫で、一日のほとんどを縁側で日向ぼっこをして過ごしていた。静かで、穏やかで、撫でるとゴロゴロと喉を鳴らす。私はそれが猫というものだと思っていた。だから、タビのような猫を飼うことになったとき、正直なところ戸惑った。こんなに動き回る生き物だったのか、と。
走り回る猫を見つめながら、私はふと思う。賑やかさというのは、きっとこういうものなのだろう。何の脈絡もなく、理由もなく、ただそこに存在する生命の躍動。それが部屋の空気を揺らし、音を立て、私の視線を奪う。タビが家に来てから、私の生活は確実に変わった。静かだった部屋に音が生まれ、予定通りにいかない時間が増え、予想外の出来事が日常になった。
ある日の夕方、私はキッチンでお茶を淹れていた。ティーポットから湯気が立ち上り、窓の外はすでに薄暗くなり始めていた。そのとき、背後で何かが倒れる音がした。振り返ると、タビが棚の上から飛び降りたらしく、その拍子に置いてあった小さな観葉植物が床に転がっていた。土がこぼれ、鉢が割れてはいなかったものの、明らかに私の想定外の出来事だった。タビは何事もなかったかのように、また別の場所へと駆けていった。私はため息をつきながら、雑巾を手に取った。
それでも、呆れながらも、私はこの猫を愛している。賑やかで、予測不能で、ときに困らせるこの存在を、私は手放したいとは思わない。むしろ、この賑やかさが日常の一部になったことで、私の感覚は以前よりも鋭くなったような気がする。音に敏感になり、動きに気づくようになり、小さな変化を見逃さなくなった。
ある雑誌で読んだ記事に、「動物と暮らすことは、時間の流れ方を変える」と書かれていた。それは本当だと思う。タビと暮らし始めてから、私の一日は細切れになった。仕事の合間に猫の相手をし、読書の途中で遊びに付き合い、眠る前には必ず膝の上で丸くなる彼女を撫でる。そんな時間の使い方は、以前の私には考えられなかった。
そして今、私はまた呆然と猫を見つめている。タビはリビングの真ん中で、突然立ち止まった。何かを見つけたのか、それとも何かに気づいたのか。耳をぴんと立てて、じっと一点を見つめている。その視線の先には、何もない。ただの壁だ。だが、猫にとってはそこに何かがあるのかもしれない。私には見えない何かが。
賑やかな猫と暮らすということは、こういうことなのだろう。理解できないことを受け入れ、予測できない動きに対応し、呆れながらも見守り続けること。それはときに疲れるし、ときに困らせられる。だが同時に、それは私に新しい視点を与えてくれた。
タビがまた走り出した。今度はソファの背もたれを飛び越え、カーテンレールに飛びつこうとして失敗し、床にドスンと着地した。少し痛かったのか、一瞬だけ動きを止めたが、すぐにまた駆け出していった。私はその様子を見て、小さく笑った。呆れているのか、愛おしく思っているのか、自分でもよくわからない。ただ、この賑やかさが、今の私にとってかけがえのないものになっていることだけは確かだった。
猫を見つめる私の視線は、もう呆然としているだけではない。そこには理解と、諦めと、そして少しの愛情が混ざっている。賑やかな猫と静かな私。その組み合わせは、意外にも悪くないのかもしれない。


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