
午前2時17分、私は目を覚ました。
理由は明白で、リビングから聞こえてくる「ドタドタドタッ」という足音と、何かが倒れる音。うちの猫、名前はムギだけど、この時間帯になると突然スイッチが入る。昼間はソファの上で丸まって微動だにしないくせに、人間が寝静まったころを見計らって突然アスリートに変身するのだ。最初の数日は「具合が悪いのかな」と心配して起き上がっていた。今はもう諦めている。
寝室のドアは開けっぱなしにしてあって、廊下の薄明かりが少しだけ入ってくる。ムギの影がそこを通り過ぎるたびに、光が遮られて壁に残像みたいなものが映る。走る。また走る。何周してるんだろう、あいつ。数えようとしたこともあったけど、途中で面倒になってやめた。
で、ふと思い出したんだけど、前に住んでたアパートの隣人が深夜にランニングマシン使ってて、管理会社にクレーム入れたことがある。あのときは「非常識だ」とか息巻いてたのに、今の私は猫の運動会を黙認してるわけで。人間って都合のいい生き物だよね。
ムギは生後3ヶ月くらいのときにうちに来た。保護猫の譲渡会で、ケージの中でひとりだけ寝てた。他の子猫たちが「遊んで遊んで!」って前足でガラスを叩いてるのに、こいつだけ爆睡。「大人しい子だな」と思って引き取ったのが運の尽き。家に連れて帰った初日の夜、いきなりカーテンレールの上に登って降りられなくなり、私は脚立を出す羽目になった。
今も何か倒した音がした。たぶんキッチンカウンターの上に置いてあったペン立て。明日の朝、床一面にボールペンが散乱してるんだろうな。起きて片付けに行くべきか。でも布団から出たら負けな気がする。謎の勝負。
呆然と天井を見つめながら、私は猫を飼うということの本質について考え始める……なんてことは一切なくて、ただ「眠い」としか思ってない。目は冴えてきたけど、体は動かしたくない。スマホに手を伸ばして時刻を確認する。2時34分。まだこんな時間。
ムギの運動会にはパターンがある。まずリビングを全力疾走、次にキャットタワーを駆け上がって頂上で一瞬静止、そこから飛び降りてソファの背もたれに着地、勢い余って滑り落ちる。このルーティンを5回くらい繰り返したあと、突然私の寝室に突入してくる。ベッドの上を横切り、枕元のティッシュ箱を前足で叩き、また走り去る。
案の定、ドアの隙間からムギの顔が覗いた。暗闇に光る二つの目。こっちを見てる。私も見返す。数秒間の沈黙。
そして突然、ムギは跳んだ。ベッドの上、私の腹の上、また床へ。一瞬の出来事。私の「うっ」という声も虚しく、ムギはすでに廊下を走り去っている。腹に残る肉球の感触。体重は4キロくらいのはずなのに、全力疾走からの着地だとけっこうな衝撃がある。
「賑やかだね、ムギさん」
声に出してみたけど、当然返事はない。リビングからは相変わらず走り回る音。キッチンの床はフローリングだから、肉球が滑る音も聞こえる。「キュッキュッ」って。たまに急ブレーキかけて曲がるときの音が、ミニカーのドリフトみたいで少しだけ面白い。
友人に「猫飼ってるんだ」って言うと、だいたい「癒されるでしょ〜」って返ってくる。癒し。確かに昼間、仕事から帰ってきたときに玄関で待っててくれる(餌の時間だからだけど)姿は可愛い。膝の上で寝てるときの寝息も愛おしい。でも深夜2時の運動会は、癒しとは別のカテゴリーだと思う。
ふと音が止んだ。
静寂。耳を澄ます。何も聞こえない。終わったのか、運動会。それとも次の爆走に向けてエネルギーをチャージしてるのか。
3分くらい経っただろうか。やっぱり何も聞こえない。そろそろ寝ていいのかな。目を閉じかけたそのとき、寝室のドアが完全に開いて、ムギが入ってきた。今度は走ってない。ゆっくりとした足取りでベッドに近づき、ジャンプして布団の上へ。私の脇腹あたりで丸くなり始める。
「終わり?」
小さく喉を鳴らす音が聞こえた。ゴロゴロという振動が体に伝わってくる。手を伸ばして頭を撫でると、目を細めてさらに丸くなる。さっきまでの狂乱が嘘みたいに、穏やかな寝息。
私はもう一度天井を見上げる。時計を見る気力もない。ムギの体温が布団越しに伝わってきて、それが妙に心地いい。
明日の朝、キッチンがどうなってるかは…まあ、起きてから考えよう。


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